愛媛2026.9.16

経営危機を乗り越え、切り拓く「太陽光パネル」の新たな可能性。ー(株)エヌ・ピー・シー・伊藤雅文氏ー

愛媛2026.9.16

経営危機を乗り越え、切り拓く「太陽光パネル」の新たな可能性。ー(株)エヌ・ピー・シー・伊藤雅文氏ー

新卒で入社した商社が傾く経験、負債2億円を抱えたメーカーの事業継承、世界進出と市場の急転。(株)エヌ・ピー・シーの代表を務める伊藤氏の歩みは、常に波乱と背中合わせでした。中国メーカーの台頭により絶体絶命の危機に瀕する中、社長に就任した伊藤氏が断行したのは、「大切なものを、ちゃんと大切にできる会社にする」という根本的な経営改革でした。過剰な拡大路線からの脱却、負債の完済、そして愛媛・松山に根を張り、独自技術で次世代の循環型社会を支えるオンリーワン企業への発展を目指す。「大事なのは、どこで誰と働くか」と語る伊藤氏に、これまでのキャリアから導き出した経営哲学、そして愛媛の地から仕掛ける新たな挑戦についてお聞きしました。

20代で経験した、「会社が傾く」という現実。


佐々木
最初に、伊藤社長のこれまでのキャリアについて教えてください。
伊藤
大阪の生まれで、大学は工学部機械工学科に進学しました。新卒で総合商社のイトマンに入社し、機械営業を6年ほど経験しました。その後1992年に、当時の職場の仲間たちと、真空包装機メーカーの事業を引き継ぐ形でエヌ・ピー・シーを立ち上げました。社長に就任したのは2011年からです。


佐々木
機械工学を学ばれて、どうしてメーカーではなく商社を選ばれたのですか。
伊藤
機械自体は好きでした。当時ホンダがF1で活躍していて、そういう世界に憧れもありました。ただ、メーカーで技術職として一つの製品に向き合い続けるのは、どうも自分には合わない気がして。むしろ、さまざまな業界や人と関われる仕事の方が面白そうだなと。それで、機械を扱う商社に入ることにしました。作る側ではなく「売る側」として機械に関わる道を選んだわけです。
川田
機械への関心は一貫してあったのですね。入社後は、どのような業務を担当されたのですか。
伊藤
機械部門の営業です。ただ、当時のイトマンは繊維や食品に強みがありましたが、機械部門には看板も固定客もなく、自分の足で開拓するしかありませんでした。大変な仕事でしたが、そのぶん「モノを見る目」や「商売を創造する力」が身につきました。この「看板に頼れない」という経験が、後々とても活きたと感じています。
川田
その後、いわゆるイトマン事件があったと聞きました。
伊藤
入社3年目くらいから、明らかに社内の様子がおかしくなっていきました。研修で経営陣の話を聞いても、何を言っているのかよく分からない。次第に報道でも大きく取り上げられるようになり、再建のために銀行から人が入ってきて、細かなことまで指示が飛んでくる…。会社というのは、こうやって傾いていくのかと、20代後半で強烈な経験をしました。
佐々木
傾いた子会社の立て直しにも関わられたと伺いました。
伊藤
問題のあった事業を切り離して新しい会社を作り、そこに出向して立て直すといった業務に携わりました。20代そこそこの私が、自分より年上の社員にも指示を出していかなければなりません。営業所を一つひとつ回って、どんな人がいて、在庫や資産がちゃんとあるかを確かめていく。会社が人と数字でどう回るのか。傾いたものをどう立て直すのか。このときの経験が、まさか自分の会社が苦しくなったときに活きてくるとは思いませんでした。

負債2億円。仲間と決めた、事業の継承。


佐々木
そこから、独立へと進まれます。
伊藤
会社がそのような状態でしたから、長く働き続けることは考えられませんでした。ちょうどその頃、取引先の縁で「真空包装機メーカーの事業を引き継がないか」という話が舞い込んできたのです。当時、2億円ほどの借入があり、その債務を丸ごと引き受けることが条件でした。当然、家族からの反対はありました。しかし、商社からメーカー側に移って新たな挑戦がしたいという想いが芽生えていたこと。また、食品業界向けの真空包装機という景気に強い事業であること。そして、そこに工場があり、社員がいたこと。これらを理由に、当時の職場の先輩や同僚数名で「この事業を継ごう」と覚悟を決めました。
川田
事業を引き継いだ直後は、どのような状況だったのですか。
伊藤
最初は20人ほど社員がいたのですが、そのような経緯での再スタートでしたから、ポロポロと辞めていくわけです。ある時、受注した機械があったのですが、担当の設計者が辞めていなくなってしまいました。受注はしたけれど、作れる人がいない。幸い、以前納めた同型の機械が一台ありました。そこで私は、その機械をカメラで撮影し、残された図面をもとに、昔からの知り合いに助けを求めながら、なんとか一台を仕上げました。それが私の、技術者としてのデビューです(笑)。あの時、現場で手を動かした経験が今の私の芯になっています。専門的なことは技術者にはかないませんが、彼らが何に困っているかは肌感覚でわかる。困っても逃げずに、何としてでもやってみる。この会社は、そこから始まっています。

世界一に挑んだ、小さな会社の胆力。


佐々木
そこから、太陽電池の製造装置で海外に打って出られます。どのような経緯だったのでしょうか。


伊藤
次の事業展開を考える中で、真空包装機の技術が太陽電池の製造工程に応用できることが分かりました。ただ、当時の日本にはまだ市場がなかったのです。そんな時、あるアメリカの会社が必死で営業をかけているのを見て、「これは市場があるな」と直感しました。看板のない機械営業を6年やってきたので、そういう嗅覚は鋭いのです(笑)。1996年4月6日、渡米しました。日付まで覚えています。今日から勝負だ、という運命の日でしたから。
佐々木
渡米されてからは、いかがでしたか。
伊藤
当時、世界一の生産量を誇っていた大手メーカーに売り込みに行きました。うちのような小さな会社が、いきなり世界トップメーカーの扉を叩いたわけです。プレゼンの途中で、担当者が一度席を外しました。そして戻ってくるなり、こう言ったのです。「これから友人と食事の約束があったがキャンセルしてきた、続けてくれ」と。その瞬間、「ああ、これはいける」と確信しました。そこから一気に道が開けて、競合他社の機械を次々に置き換えていくことになります。1996年にアメリカ、1999年にはドイツへと拠点を広げていきました。

大切なものを、大切にする会社を目指す。


佐々木
ピーク時はグローバルで従業員650名程まで拡大したとお聞きしました。しかしその後、市場が大きく反転しますね。
伊藤
そうですね。中国の太陽電池メーカーによる価格ダンピングにより市場が崩壊し、高値で買収したドイツの会社が重荷になってしまったのです。拡大の過程で膨らんだ借入金もあり、相当に厳しい状況でした。その一番苦しい時期に、私は社長になりました。とはいえ悲壮感に浸る余裕もなく、「やるしかない」という思いで会社を立て直すことばかり考えていましたね。
佐々木
具体的に、どのように軌道修正を図られたのですか。
伊藤
それまでは株主や投資家、規模の拡大ばかりに目を向けていました。受注のためなら赤字覚悟で仕事を取りにいく。そうしたスタンスを根本からやめました。売上ではなく、まずは利益をしっかり確保する。それから、退職金や給与制度もきちんと整えました。私はよく「普通の会社にしたかった」と言うのですが、要するに大切なものを、ちゃんと大切にできる会社にしたかったのです。社員の暮らしと、会社の土台を立て直すことに奔走しました。
佐々木
その経験が、今の事業基盤につながっているのですね。
伊藤
このような体制のもとに当時の社員が一丸となって利益獲得、在庫圧縮、工場売却などを図り、借入は2018年にすべて返し終えました。無理な受注をやめたことで、1台1台にきちんと利益が出る体制になっています。地に足のついた経営ができるようになりました。同じ時期に太陽電池を手がけていた競合他社は、ほとんどが撤退しています。この業界で一番長くやっているのは、恐らく私たちではないかと思います。昔からの知人に会うと「エヌ・ピー・シーさん、よく頑張ってますね」と言われます。派手に伸びることをやめたからこそ、生き残れたのだと思っています。
川田
その基盤の上で、今後はどのような事業展開を考えられていますか。
伊藤
一つは太陽光パネルのリサイクル事業です。パネルというのは綺麗に解体しなければリサイクルできない。それなら、長年装置をつくってきた私たちにこそできるはずだと考えました。破砕して混ぜてしまうのではなく、独自の分離技術「ホットナイフ分離法」の開発により、素材ごとに繊細に分離することが可能となりました。パネルの構造を知り尽くしているからこそ、綺麗に解体できるのです。破砕装置のメーカーには、これは真似ができません。この分野では、近い将来オンリーワンになれると見込んでいます。
川田
市場としては、これからということでしょうか。


伊藤
2012年に始まった固定価格買取制度(FIT)から20年経ち、2030年代には使用済みパネルの大量廃棄が本格化します。これは確実に来る未来です。国もリサイクルの義務化に動いていますし、高度な技術で処理したものを優遇する制度において、私たちの技術が高く評価されている。追い風は間違いなく吹いています。
さらに、パネル以外の廃棄物にも展開を拡げています。松山市内の廃棄物処理会社にビンの選別装置を納め、産業廃棄物という新たな業界に参入することに繋がりました。
また、次世代のエネルギー技術として期待されるペロブスカイト太陽電池も今後の鍵となりそうです。国が育成を進めており、私たちは開発用の装置を提供しています。
作ったものを、最後まで責任を持って見届ける。ものづくりのサイクルを実現し、持続可能な未来を技術で支えていくことが、これからの私たちの使命だと思っています。

人が、この会社を愛媛に根付かせた。


佐々木
本拠を愛媛に置かれたのは、どういう経緯だったのですか。
伊藤
実は、たまたまなのです。ある装置をつくる際に、取引先から愛媛の会社を紹介してもらいました。訪ねてみたら、当時20代だった若い設計者たちが、図面をさっと引いて、部品を素早くつくり、機敏に応えてくれる。こんなことができるのかと驚きました。この方たちと仕事をしたら面白い、きっとうまくいくと思いました。もし紹介されたのが愛媛の会社でなかったら、今のエヌ・ピー・シーはなかったと思います。
佐々木
初めて愛媛にいらしたときの印象は、いかがでしたか。
伊藤
まず、伊予弁の響きが優しいなと感じました。みんな言葉遣いが柔らかい。自然豊かな、穏やかで素敵な土地だなという印象がありました。
当時から県外に出た若い人が30歳前後で地元に帰ってくるという流れがありましたが、「みんな、地元が好きだから帰ってくるんだな」と思いました。そういう方たちと一緒に仕事ができたことは、幸運でした。
川田
30年近く、この地で事業を続けてこられていますね。
伊藤
苦しい時期には、県に誘致していただいた場所で人を減らすという辛い判断もしました。地元出身の役員には、私以上に堪えたと思います。それでも、この土地で続けてこられた。
私たちのような機械メーカーは一般の方の目に触れる機会が少ないので、地元の方々にエヌ・ピー・シーを知ってもらうために、6年程前から工場の空いたスペースを活かしてレタスの水耕栽培を始めました。この事業には「自分たちの会社が作った野菜が暮らしの中にあるという事実が、社員のちょっとした誇りになってほしい」という想いも込められています。愛媛県内だけの販売ですが、作った分は全部売れていて社員に回らないくらいです(笑)。この土地に根を張るための取り組みとして、今後も続けていきたいと思っています。
川田
地域とのつながりを深める活動にも力をいれているのですね。
伊藤
そうですね。太陽光パネルのリサイクルについても、大学や金融機関、産業廃棄物の事業者さんなど、地域の方々と一緒に分科会を立ち上げ、「愛媛発でどうやって資源を循環させていくか」という課題に取り組んでいます。すぐにビジネスになるかは分かりませんが、私たちができることをやっていこうと。こういうことは、都市圏では同じようにできないと思います。関係する方々の顔が見えて距離が近い。だから話が前に進むのです。地域に根ざしているからこそ、できることですね。

大事なのは、どこで誰と働くか。


佐々木
採用では、どんな方を求めていらっしゃいますか。
伊藤
まず、格好をつけてしまう人は馴染みにくいかもしれません。重視したいのは、本音で話せるかどうか、そして物事を丁寧に考えて誠実に向き合えるかどうかです。真面目に、コツコツと取り組める人が当社の風土に合っているように思います。当社は役職名ではなく「さん」付けで呼び合っていますし、社長であっても気兼ねなく声をかけられる風土があります。
また、当社の仕事の多くはオーダーメイドの受注生産で、1台1台の機械を丁寧に作り上げていくスタイルです。特に大企業にいらした方ほど、なかなか味わえないものづくりの面白さを感じていただけるのではないかと思います。


佐々木
海外売上が約8割と聞くと、「語学力がないと難しいのでは」と考える求職者もいそうですね。
伊藤
最初から高い英語力を求めてはいません。何より大切なのは「ものづくりへの誠実さ」です。語学や知識は入社後に現場で身につけられますから、そこは安心して飛び込んできてほしいですね。
川田
最後に、地方でのキャリアに不安を感じている方々へのメッセージをお願いします。
伊藤
地方だから閉じている、キャリアが止まる、なんてことは絶対ないと思います。当社の装置は50近くの国や地域で使われていて、設計した本人が海外に赴き、設置に立ち会うこともある。松山にいながら、世界を相手にものづくりができます。また、幹部へキャリアアップしていく道もある。大事なのは「どこにいるか」ではなく、「どこで、誰と働くか」です。それを自分自身で納得して選べばいいだけの話だと、私は思っています。
佐々木
規模を追うのではなく、大切なものを大切にする経営へと立ち返られたこと、そして、その判断が今の確かな事業基盤と新しい挑戦につながっていることに感銘を受けました。どこで、誰と働きたいのか。その問いに向き合う方々の一つの道標になればと思います。 本日はありがとうございました。

伊藤 雅文

(株)エヌ・ピー・シー 代表取締役社長

大阪府出身。1986年、大阪府立大学工学部機械工学科卒業後、総合商社イトマンに入社し、機械営業に6年間従事。1992年、食品用真空包装機メーカーの事業を引き継ぐ形で株式会社エヌ・ピー・シーを設立。太陽電池製造装置メーカーとして世界市場を切り拓き、2007年に東京証券取引所マザーズ(現グロース)へ上場。2011年より現職。

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