30代半ばで「青年海外協力隊員」として、セネガルへ
- 溝渕
- 大学をご卒業後の橋本部長のキャリアをお聞かせください。
- 橋本
- 大学時代を東京で過ごし、就活ではあまりエリアにこだわらず、いろんな会社の説明会に行っていました。四国の会社もあったし、東京の会社もありました。
様々な社会人の先輩と出会ったのですが、中でも印象に残ったのが四国電力の先輩方です。「穏やかな、人の良い社員の集まっている会社だな」と感じたのです。ゼミの同級生や部活のメンバーは、ほとんど東京で就職したのですが、私は「どうせ働くなら居心地の良いところがいい」と考え、地元に戻って四国電力に入社することにしました。
四国電力なら、生まれ育った四国のために貢献できるのではないか、と感じたのも理由の一つでした。 - 佐々木
- 同級生は東京で就職するのに、自分だけ地元に戻る、という選択に迷いはなかったですか?
- 橋本
- 私はあまのじゃくな面もありますから。人が選ばない道を選んでしまう。だから「みんなが東京に残るなら、自分は地元に帰る」と、全く気にしませんでした。
- 溝渕
- 四国電力に入社してからは、どのような経験をされたのですか?
- 橋本
- 入社後は新居浜の営業所に配属。最初に任されたのが、電気料金を支払いに来られる人の受付、停電作業の周知とか、引越時の電気の停止・再開の受付など、一般のお客様に近い仕事です。この仕事を経験して、電気を確実に送り届けるため、電力会社にはいろんな仕事があるのだ、と理解しました。また、地域の人々の支援がなければ、当社の事業は成り立たないということも、肌で感じました。
営業所にて3年間勤務した後に、高松の本店に戻りました。原子力燃料の調達部門で5年働き、企画部門へ異動。新規事業なども手がけました。
それから、青年海外協力隊に応募して、2003年~2005年までセネガルに行きました。
- 溝渕
- どうして青年海外協力隊に参加しようと思われたのですか?
- 橋本
- 私が30代半ばの頃、電力業界に大きな変化が始まりました。「電力の自由化」です。それまでは各地域の電力会社が独占的に行ってきた電力事業に、他事業者の参入が認められることになったのです。私は当時企画部門にいましたから、事業環境の激変を敏感に感じました。
今までは、お客さまに安定的に電力を供給していれば良かった。しかし今後は、価格面を含めて魅力を訴求し、数ある電力会社の中から、当社を選んでもらわないといけない。これまでの常識にとらわれず、会社も働く社員も大きな意識転換が必要となるタイミングでした。
そんな折、街で「青年海外協力隊員募集」のポスターを目にしました。友人・知人も全くいない、言葉も通じない場所で、現地の人々の困り事を助けるボランティアとして活動するのは、今後の人生にプラスとなる刺激を与えてくれるんじゃないか、と感じました。
そこで上司や同僚に相談し、ボランティア休暇制度を活用して、海外に向かうことにしたのです。それまで、業務で海外に行ったことは一度もありません。社会人としての折り返し地点の年齢を迎えたことを機に、退路を断って新しいことにチャレンジしようという気持ちになったのかもしれません。そのような機会を与えてもらったことに心から感謝しています。
物の見方が変わり、役割を果たすことの大切さを学んだ
- 佐々木
- そのような決断をされた人は、社内でも珍しかったのではないですか?
- 橋本
- 事業環境の激変にあたり新しいことを始めないといけない、と感じた社員は、他にもいました。新規事業として福祉関連の事業を始めたり、海外展開に取り組む部署が立ち上がったり。「新しく動き出さないといけない」と、多くの社員が考えたのです。
私は経営企画部にいたので、営業や技術の現場で汗をかいている、という実感がありません。そんな自分自身を歯がゆく感じた、ということもあって、青年海外協力隊を選択したのだと思います。 - 溝渕
- セネガルではどのような体験をされたのですか?
- 橋本
- 村落開発普及員という仕事を選び、管轄下にある約50の村落をバイクで回って何が必要とされているかを調査しました。その中で現地の女性グループのリーダーから、「女性たちの労働力を、現金収入の向上につなげたい」と相談を受けました。
現地に赴く前、長野の研修所で3ヶ月、セネガルの公用語であるフランス語を学びました。しかし現地に入ってみると、みんな現地のプル語を話し、フランス語が分かる人などほとんどいません。言葉もわからず、文字を書いても通じない、そんな人たちと一緒にプロジェクトを進めたのです。
まず四国電力グループに勤める社員の方に支援を仰ぎ、約1000名から130万円の投資を集めました。これをもとに、重機で森林を開墾し、水揚げポンプで川から水を引き、畑を整備し、玉ねぎやとうもろこしの栽培を始めました。できた野菜を市場に売って販売、利益として作業者で分配するのです。
私は農作業のことが全くわからず、現地女性は資金管理や販売ルート開拓が苦手。そんな状態でしたが、時に専門家の指導を仰ぎながら、うまく運営できる状態まで持っていくことができました。最初に集めた130万円の投資は利息をつけて返済するつもりだったのですが、「現地で有意義に使ってほしい」という支援者の善意で、村人の生活・教育向上のための資金として寄付されました。 - 佐々木
- その経験によって、ご自身にどのような変化がありましたか?
- 橋本
- 話さないといけない時に、先頭に立って話せるようになりましたね。本来の私は、先頭に立つような人間ではなかったのです。しかし現地では、自分がスターターにならないと何も始まりません。こういう風にしよう、こうすれば大丈夫、と拙いフランス語で現地の人々を勇気づけないといけない。そうなると、ともかくいろんな人と話して、理解者を増やすしかないんです。
物の見方も変わりました。それまで、いわゆる貧困地域の人々は「努力が足りない、だから貧困から抜け出せないんだ」と思っていました。でも行ってみると全く違う。努力しようとしても乗り越えられないハードルが多すぎる。そういう状況の中で人々は暮らしているのだ、と目を開かされた気がします。誰しも、与えられた環境の中でがんばっている。相手の環境、立場を理解することの大切さを学びました。
現地の人々に「協力する、お役に立つ」
- 溝渕
- 2005年に帰国し、四国電力に戻ってからは、どんな仕事に就かれたのですか?
- 橋本
- 「国際事業がスタートしているので、海外の経験を活かしてみてはどうか」と上司に薦められ、国際事業に加わることになりました。
当初、国際事業に関しては、新たな収入源を獲得するための新規事業分野の一つとして、東南アジア等の発展途上国において技術コンサルタント業務に取り組んでいました。四国電力に蓄積された技術やノウハウを活かし、現地の電力設備を安定的かつ効率的に作り、運用するための提案やアドバイスをする仕事です。
技術コンサルによって海外で業務を行う経験を積み、次は、海外で発電所を建設するための投資を行い発電事業を始めよう、としていた時期でした。そこで私は、事業環境整備に携わりました。海外事業に通じた商社を回って情報を収集したり、当社が海外に投資を行うにあたっての基準を作ったり。並行して、事業権を獲得するための国際競争入札に参加し始めたものの、最初はなかなか受注できませんでした。初めて中東の案件に当事者として参画できたのは、3年ほど経ってからです。これが海外における発電事業の一歩となりました。
以降、紆余曲折はあったものの、着実に参画プロジェクトを拡大。2018年には国際事業部が発足し、私が初代の部長に就任することになりました。現在、海外において、火力および再生可能エネルギー発電所の計画から建設、運転、地元電力会社への電力販売まで、20~30年にわたって実施するという事業を展開。今日まで8カ国・11のプロジェクトに参画しています。 - 佐々木
- 国際事業部が推進する数々のプロジェクトの社会的意義などについては、どのようにお考えですか?
- 橋本
- 世界には、電力不足で停電が頻発する国、未電化の地域が、まだまだ数多く存在します。気温40度を超える暑い国なのに、電力不足のため日中に4~5時間もエアコンを使えない、という事態が、当たり前のようにあるわけです。
こうした地域で、安定的で効率的な電力供給を長期間実施することは、現地の社会と経済の発展に大きな影響を与えます。もちろん事業である以上、収益性は無視できません。しかし同時に、その地域に暮らす人々にとって有益となる活動を行おう、というのが、私たちの考えです。
国際事業部の英語名称を決める際、私たちはInternational Business and Cooperation Development”という名前にしました。敢えて「Cooperation(協力)」の一単語を追加したのは、私たちが活動する地域の人々に「協力したい、お役に立ちたい」と考えたからです。そういう気持ちや覚悟なくして、長期にわたる困難なプロジェクトの遂行はできません。
国際事業の拡大は、四国電力の収益基盤強化につながるだけでなく、人材の多様化・育成にも寄与すると考えています。それは結果的に、私の生まれ育った四国への貢献につながるのではないでしょうか。
国際事業部では、様々なスキルが活かせる
- 溝渕
- 国際事業部としては、どんな目標を掲げていますか?
- 橋本
- 2025年に40億円の業績を挙げるとしていますが、この達成は手応えを感じられる状況になっています。次に見据えるのは、2030年の80億円です。そのためには、これまでの発電事業だけでは難しく、事業分野の拡大が必要と感じています。LNG基地の運営、今後拡大するであろう蓄電池を使った事業、更には再エネを使った水素燃料の製造など。エネルギーインフラ全般を見渡した事業を展開していきたいと考えています。
- 佐々木
- そのための課題は何だと捉えておられますか?
- 橋本
- やはり人材ですね。国際事業部が発足した当初、様々な分野のバックボーンを持つ人材を社内から集めました。発電所の建設・運転・修繕を行う機械や電気の技術者を始め、人事・法務・財務・税務・営業など、いろいろなスペシャリストが働いています。そうでないと、海外におけるプロジェクト推進はうまくいきません。事業を拡大させようと思うと、これまで以上に多彩な人材が必要となるのは間違いありません。
- 佐々木
- 多種多様な能力・経験の人が、国際事業部で活躍できる可能性があるということですね。
- 橋本
- はい、自分の能力・経験で国際事業に貢献したいと思う人なら、大歓迎です。国際事業を進める上で重要なのは、特定のスキルと言うより、「コラボレーション」「コミュニケーション」「レジリエンス」の3つを大切にできるかどうか、です。
プロジェクトに関わる多くの専門家とコラボレーションしなければなりません。コラボを進めるには、コミュニケーションが大事です。これは語学力の巧みさではなく、熱意を持って自分の言いたいことを言い、相手の意見を尊重できるか、ということです。また、プロジェクトには、常に想定外の事態が発生します。そんな時にあわてるのではなく、むしろ楽しむくらいのレジリエンスがあると、自己成長にもつながるでしょう。
四国の穏やかな環境で暮らすからこそ、厳しい海外ビジネスと向き合える
- 溝渕
- 橋本さんは「四国ならではの働く価値」について、どのようにお考えですか?
- 橋本
- 私が大学生だった頃は、まだ瀬戸大橋がなく、四国に戻る時はいつも連絡船でした。朝、東京から船に乗ると、夕方頃に香川に着く。その瀬戸内海の夕日が、私はとても好きでした。「こういう夕日を見ながら毎日を送りたい」と思ったこともUターン就職を選択した一因だったのかもしれません。
すぐそこに、豊かな自然がある。家族とともに送る暮らしがある。わざわざ意識しなくても、ワーク・ライフ・バランスが充実している。これが、東京や大阪などの大都市と、地元との違いですよね。
仕事面で言えば、リモート環境が充実し、遠隔でコミュニケーションを取るのは難しくなくなってきました。「大都市圏にいないと仕事が不便」という点は、かなり解消されていると感じます。そもそも国際事業部において距離の壁を言い訳にしていたら、プロジェクトなんて進められません。
普段は穏やかな自然と柔和な人々に囲まれて生活し、いざプロジェクトに向かうとなったら、テンションを上げて海外へ出ていく。任務を終えたら、再び穏やかな場所に戻る。そんな働き方が、私には理想的です。
- 佐々木
- 独自の価値を世界に発信する、という仕事は、四国でもできる。そのことを国際事業部のみなさんは、日々、実践されているのですね。
- 橋本
- 仕事面では、大都市も地方もそれほど違いはありません。一番違うのは、エンタメでしょうか。劇場やイベントは、確かにローカルでは少ないですから。でも、その気になれば香川から東京まで、飛行機で1時間。たまに遊びに行こうと思えば、難しくない。
それよりも、私は「帰ってきたい場所がある」ことの方が大事だと思います。目一杯テンションを上げて海外での仕事をこなし、帰ってきても大混雑の街の中でストレスを抱えて暮らす、というのでは、気の休まる暇がありません。
海外の現場に行くと、キャリアや経験の浅い人間でも、周囲からは「会社を代表する人」という目で見られます。そのプレッシャーは小さくありません。だからこそやりがいも大きい。世界の発展を支える、良い仕事をさせてもらっているな、と思います。そういう責任の大きい仕事を担っているからこそ、普段は穏やかな自然と人に囲まれた四国で暮らし、十分に充電しておきたいのです。 - 佐々木
- 橋本さんの話を聞き、世界に通じる仕事は「四国でもできる」というよりも、むしろ「自然と人に恵まれた四国だからこそできる」のではないか、との思いを強くしました。
本日はどうもありがとうございました。
当社が運営する転職支援サイト「リージョナルキャリア」にて、四国電力(株) 国際事業部長 橋本勇士氏の取材記事を掲載しております。併せてご覧ください。
<関連コラム>
<四国電力への応募をご検討の方へ>
「四国電力・四国電力送配電への応募検討のために必要な情報を得たい」、「今すぐの転職希望ではないが将来に向けて情報を得たい」という方々を対象に、事前相談の機会を設けています。具体的に検討を進めるきっかけとしてぜひご活用ください。
橋本 勇士
四国電力(株)常務執行役員 事業開発室 国際事業部長
愛媛県出身。1985年、東京の大学を卒業後、四国電力に入社。新居浜営業所勤務を3年経験し、新規事業部、経営企画部など本店の業務に従事する。自身が30代半ばを迎えた2000年前後、電力自由化という大きなうねりが始まる。事業環境の激変により、個人としても意識の転換が必要ではないかと感じ始めた。そこでボランティア休職制度を活用し、青年海外協力隊に応募。2003年~2005年まで、セネガルにおける村落開発普及員として活動する。帰国後、四国電力でスタートしていた国際事業に配属。海外における発電事業を進めるための枠組み構築から着手し、3年後、中東での案件を獲得。同社における初の海外発電事業への参画となった。以降、8 カ国で11 のプロジェクトに参画している。2018年、さらに積極的に海外ビジネスを拡大しようと、国際事業部が発足。その初代の部長に就任する。
佐々木 一弥
(株)リージェント 代表取締役社長
香川県さぬき市出身。大学卒業後、2007年に株式会社リクルートに入社。求人広告の企画営業職として、香川・愛媛にて、四国に根差した企業の採用活動の支援を中心に、新拠点や新サービスの立ち上げも経験。2010年に販促リサーチを行うベンチャー企業の創業メンバーとして参画。創業の苦労と挫折を経験。2012年、株式会社リージェントの創業メンバーとして入社。2019年より代表取締役社長に就任。子どもと焚き火をするのが至福の時間とのこと。
溝渕 愛子
(株)リージェント チーフコンサルタント
高知県高知市出身。大学卒業後、総合リース会社に就職。地元の高知支店に配属されリース営業に従事。その後、大阪に転居し、株式会社リクルートに入社。HRカンパニー関西営業部の新卒・キャリア採用領域で企業の採用活動をサポート。また、派遣領域では関西・中四国エリアの派遣会社への渉外業務に従事。四国へのUターンを決意してリクルートを退職。香川県の人材サービス企業に転職し、管理部門にて、社員の労務管理、新卒採用活動に従事。その後、株式会社リージェントに入社。今ハマっているのは、限られた自由な時間を有意義に過ごすこと。1日にジャンルの異なる数冊の本を、少しずつ読むことを楽しんでいる。